「あっ……え……、あ……、かし……君……?」

その時、降旗は後にも先にも無い程動揺していた。

部活が終わって、いつも通りの自分の家に帰ったはずだったのに、降旗の家内はいつもとは違う空気で満ちていた。

乾いた喉を潤す為に冷蔵庫へ向かうと、リビングに母親と対面するように清楚な女性が座っていた。その女性の見た目での年齢は、降旗の母親と同じか、それより少し下くらいだろう。降旗にそっちの趣味は無かったが、彼女はかなり美人に見えた。切れ長の整った目にストレートの赤みがかかった髪、これだけ聞くと鋭い容姿のように思えるかもしれないが、その容姿とは対極に近い優しい雰囲気を纏っている為、元々の鋭さはほどよく緩和されている。彼女はそこに元々あったイスに座るのではなく、車椅子に座っていた。足に包帯などの施しは見られないので、きっと怪我の類では無いのだろう。

昨日、降旗の母親が「明日、懐かしい友達と家で会う約束してるの。だから、もし光樹も会ったらちゃんと挨拶するのよー」と、上機嫌に話してきた事を思い出した。
彼女は、母が言う懐かしい友達という人なんだろう。

でも降旗はその女性より、彼女の隣に座っている少年に対して動揺していたのだ。
降旗が漏らした声によって振り向いた彼は、こちらを忌々しげに見るのではなく、何の感情も抱かないような目で降旗を見るだけだった。
朱色とえんじ色の瞳と視線が合って、降旗は何を言えばいいのか分からずにその場で硬直していた。

そんな降旗に、助け舟を出してくれたのは母親である。
「光樹、おかえり。早かったわね」
「あ、うん、ただいま……、えっと、こんにちは」
挙動不審ながらも一応の礼儀として挨拶をした。
「こんにちは」
女性が降旗に向かって優しく微笑む。赤司は軽く頭を下げただけで、挨拶を返してはくれなかった。
「じゃ、じゃあ、ごゆっくり……」

少しあからさまな気もするが、降旗は足早にその場を離れようとした。
冬だから大して喉も乾かないだろうと思い、高をくくっていた降旗は、今日学校へ飲み物を持って行かなかった。しかし、あのキツイ部活の後に喉が乾かないわけがなかった。
男同士で回し飲みをするのは気がひけたので、降旗は喉がカラカラのまま帰ってきた。今だってカラカラだ。
……しかし、今はそんな事どうでもよい。
いち早くここを出て行きたい。飲み物なんてコンビニで買ってくればいい……、それが今一番の願望だった。

「光樹、あんたもこっち来て話しなさいよ、征十郎君だって来ているのよ?」

母親が不思議そうに言う。この台詞は、降旗にとって悪魔からのお呼び出しのようなものにしか聴こえなかった。

「お、俺は、課題があるからいいやー……。3人で楽しんでて……あはっ……ははっ」

口元を引き攣らせながらも精一杯の言い訳を言い切って、降旗は自分の部屋へと繋がる階段を駆け上る。
降旗の心臓はドキドキというよりも、バクバクという音の方が似合うほど、強く脈を打っていた。


                    ★


「……な、なんで、あいつ……、いやあの人がここに居るんだよ……?」

部屋に帰ってくるなり、降旗は自分のベットにダイブした。
彼があの女性の息子という事は目で見ただけでも分かった。しかし、降旗の母親が、何故赤司の母親と仲が良いのかについては、全く理解できない。
聞く所によれば、赤司はかなりのお金持ちだと言う。それは必然的に、赤司家がお金持ちという事になり、彼も彼女もそのお金持ちの一員という事だ。一般庶民である降旗の母親には、到底出会えないような人種だ。ましてや、友人だなんて以ての外である。
そして母親はさっき、まるで赤司と降旗が話すのを当たり前のように声をかけてきた。その言葉にも、多少の違和感を覚えた。

「色々考える事が多すぎて、もう訳分からないよ……」
「へぇ、ベットに顔を埋めて、何を考えているんだ?」
「ふぎゃっ?!」

背後から声に、飛び起きてから振り返ると、そこにはドアにもたれるようにして赤司が立っていた。
……何で俺の部屋に来てるの……?! 声には出さなかったけど、その疑問にあった顔をしていたのだろう。赤司はさっきと同じような無表情で降旗に言った。

「君の母親に、君の課題を見てやってくれないかと頼まれたんだ。それで部屋に上がってみれば……、君の課題とは枕に顔を埋めて考え事をする事なのか?」
「ち、違う……、えと、これは……! あ、の、今から課題……します……」
「別に、端から君の課題なんて見てやるつもりは無かったからいいけど」
「え、あ、そうですか……」

じゃあ何しに来たんですか、そう問ってみたら機嫌を損ねられるような気がして、慌てて口を噤む。
初対面の時も、思わず手が震えてしまう程怖くて仕方なかったけど、ましてや今は一対一。この間みたいに、黒子や火神が助けてくれることも無い。赤司派普通の会話をしているつもりなのだろうが、降旗からしてみれば、精神攻めに会っているようなものにしか思えない。
彼は、ふーんと、降旗をじーっと見て言った。

「……同級生に敬語を使われたのは、テツヤ以外で初めてだ」
「す、すみません……」
「? 何故謝っているんだ?」
「えーっと……」
「まぁいい。一つ聞くが、君は客をいつまでも立たせるような人間なのか?」
「いえ! あ、え、えっと、何処でもお座り下さい……」

降旗はベットの上に正座をしなおした。
普段同級生が遊びに来た時なんかは、床に座ってもらうけど、何でも相手はあの赤司だ。床に座ってくれなんて言った時には、「頭が高いぞ」なんて台詞を吐いて、降旗を滅多打ちにするのだろう。

「じゃあ、失礼するよ」
彼は当然のように、降旗も座っているベットの上に腰かけた。
今、降旗の脈拍は今日一日で、もしかしたら人生で一番早く打っているのかもしれない。そのくらい、降旗は彼に対して恐怖心を抱いていた。

「ねぇ、何でそんなに端っこに行くのかな? あまりにもあからさま過ぎると傷つくんだけど。あからさまじゃなくて少し避けただけでも、僕は気付くけどね」
「すみませ……ん」

降旗は少しだけ赤司に近づき、自分から言葉を発する事はなく、ただ俯いた。
「僕はガラスのハートの持ち主だからね」とでもいうかのようにそんな事を言われても、そんな赤司にトラウマを植えつけられた降旗としては、信じられない。
桐皇学園の桜井並みにこの数分だけでも謝っている。降旗はこの時だけ、桜井が普段から謝り倒している意味が分かった気がした。

「あ、そうだ、はいこれ」
「?」

赤司は思い出したように、自分が持参したであろうバックから、スポーツドリンクを取り出して、降旗に渡した。
降旗が頭の上でクエスチョンマークを飛ばしてると、彼は大胆にため息を吐き言った。

「喉、乾いてたんだろう?」
「えっ……、何で分かったの?!」
「何となく。見てれば分かる」

そういえば赤司は、天帝の眼というチ―トな能力を持っていたっけ……、と降旗は去年のWCの事を思い出した。
明日から春休みだから、もうあの日から3カ月近く経ったんだ……と、時の流れる早さを実感する。来年からは木吉無しで、洛山高校を含む、数々の強豪校と戦わないといけななんて、正直怖気付いてしまいそうな自分が居た。

「……ありがとうございます」
降旗がお礼を言うと、彼は嬉しそうに目じりを下げて、
「どういたしまして」
と優しく微笑んだ。親切をした方が、逆に嬉しそうにしてるなんておかしな話だ。
彼の笑顔に少しでもドキッとしてしまった自分が、本当に正気なのか確かめる為に、降旗は冷たいスポーツドリンクを頬にひっつけた。
あの赤司の事をこんな些細な事で、思ってたより悪い人じゃないのかも……なんて考えてしまう降旗は、単純な人間なのかもしれない。

貰ったドリンクを喉に通している間も、彼は凝りもせずにずっと降旗の事を見ていた。
視線が痛くて、心なしか、飲み物も喉を通りにくくなっているような気がする。

「あの、何ですか……?」
「いや……、何でも……。ただ、本当に覚えてないんだな―と思っただけ」

彼の意味深な発言に対して、降旗は首を傾げた。
ここで何も無かったようにしてれば良かったのだろうけど、彼は赤司に聞き返した。

「覚えてないって、何をですか?」
「……僕の事」

そう答える赤司の声が、怒っているようで、拗ねているようで……、まるで子供のように聞こえた。
ますます彼の言っている事が良く分からなくて、再び降旗は言った。

「えっと……、赤司君の事、覚えてますよ……?」
「え……?」

赤司の眼が見開き、降旗の方を見つめる。
あの衝撃的な初対面があったのだ。忘れるわけないし、彼だって一応ベンチに居ながらも誠凛バスケ部の一員なのだ。応援という形ではあるが、降旗も赤司と、洛山高校と戦った。

「あの、だって一度戦いましたし、赤司君はベンチに居た俺の事なんて眼中に無かったと思っていたんですが……」
「……」

あれ? 降旗は再び首を傾げる。
思った事をそのまま伝えただけだったのだが、赤司は凄く不機嫌そうな顔をして黙ってしまった。

「……本当に覚えてないんだな」
「いやだから、さっきも言った通り……」
「そういう事じゃないんだ」

彼は悲しそうに笑いながらそう言って、降旗の方を見つめる。
怖かったはずの瞳がその時だけは、恐怖を抱くような物ではなく、降旗の目にも綺麗に映った。
降旗が落ちついたのを見計らって、赤司は微かに口角を上げた。彼はほとんど何にも触れずに降旗をベットに倒れさせ、彼の腹の上にどかっと座った。

「え、ちょっ?!」

赤司は降旗を押し倒したわけではない。この場合、降旗が自分から倒れたと言う表現が正しくなるだろう。これは彼が試合中にも見せたもので、簡単に言えば相手の力を無効力にする能力だ。
突然の事で良く分からないまま、降旗は自分の腹の上に座る赤司を訴えるような目で見た。
そんな涙目の降旗を見て、赤司は楽しそうに笑う。

「僕、こんな所から人を見下ろしたの初めてだよ」
「えっ……、マジで……」
「何故、素で驚いているのか僕には分からないな。僕の事を、こういう風に人の上に乗っかるのが日常茶飯事の変態さんみたいに思ってたんだ?」
「ち、違います……!!」

ブンブンと頭を横に降る降旗を見て、赤司はずっと揺るぎ無い笑顔を浮かべている。
赤司の笑顔は、色んな意味で人を殺せそうだ。
降旗の頬に、赤司の長い指が滑る。
「ひっ……」と小さな悲鳴を零す降旗を、とても楽しそうに詰っているだけで、彼は何をするでも無かった。

「な、何がしたいんですか……」
「僕に触れるのが嫌だというのか? ただ……、こうやって君の肌に触れてたら、思い出してくれるかなと思ってね」
「な、な、な、赤司に肌を触れられて思い出すような想い出なんて、ありません……!」

叩くでも撫でるでも無いその手の感触に嫌気がさしたのか、降旗は赤司に乗られたままそっぽを向いた。
赤司は相変わらず笑顔だったが、その目は先ほどのように笑っていない事が分かる。

「ちょ、何するんで―――……」

段々近づいてくる赤司の顔を避ける事も出来ずに、降旗は言葉で訴えた。
だけどその声は届く事も無く悉く砕け散り、降旗の頬と唇の際どい所に軽いキスが落とされた。
そして、赤司は、顔を赤らめる降旗の事なんて気にせずに、今度は耳元で囁いた。

「……おかえり、みつき」

最初は口づけの衝撃が大きすぎて、ただ頭の中がグルグルしているだけだった。
赤司が降旗の唇に触れた意味も、囁かれた言葉の意味も分からず、赤司がさっきまでの笑顔と違い、悲しそうな笑顔を浮かべている理由も全く理解できない。

「ねぇ……、想い出してよ」

トン、と降旗の胸に赤司の頭が乗り、宙ぶらりんだった手に赤司の手が絡む。
指先はひやっとする程に冷たくて、温もりとは程遠いのに、何故かその温度が懐かしくて、落ちつく自分が居た。
静かに目を閉じて、ぎゅっと彼の冷たい手を握った。

――……俺、この温もりを……、知ってるの……?

そう感じた瞬間、降旗の頭の中で大きな記憶のピースが落とされた。

→②
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