ひまわり

蝉の音さえ聞こえなくなった。
 体が沸騰しそうな程に暑い夏の日なのに、僕は体から汗が出ている事にすら気がつけない。
 
 声にならない疑問が心の奥で渦巻く。ドロドロとしたそれは僕の中で吐き気を生んだ。

 悲しいってこういう事なのですか。そんな4文字で治まる程、僕の気持ちは簡単なもので……、すぐに消えてしまうものなのでしょうか。
 
 ――征十郎、冬に咲くヒマワリは凄いわね。……私もこんな風になりたかったわ。

 今なら分かる、その言葉の意味が。冬、庭の片隅に咲いたその花を見て、お母様が本当に僕に伝えたかった事が。寂しそうにほほ笑む横顔の裏に隠されていた影の意味が。
 
 ――ねえ、征十郎、勝負をしましょう。

 お母様はいつだって発想豊かで、その豊かさ上にまだ小さい僕を振りまわしてくれた。
 でも、それを嫌だと思う事は一度も無かった。
 時に僕を困らせてくれる自由なお母様が好きだったから。

 ――これから何か勝負をする時には、絶対に勝つ事。それはお母さんも同じ。
   どちらかが何かに負けたなら、その時点で私と貴方の勝負は決まり。

 これも、いつもの自由奔放な提案の一つだと思っていた。
 いつにも増して無茶苦茶過ぎる勝負を投げかけられて、その時の僕は唖然としていたけど。

 ――もし私が勝った場合は、私の願いを征十郎が叶える事、
   万が一貴方が勝った場合には、同じように貴方の願いを私が叶えてあげるわ。

 そんな勝負に何の意味があるのかなんて分からなかったけど、僕は流されるままにその勝負に乗ってしまった。いつもの事だ。
 僕もお母様も強いからどっちにしろ勝負はつかないと思っていた。
 その内、勝負をしてた事すら忘れてしまう、そんな風にこの時の僕は思ってたんだ。

 だけど……、この勝負は僕の勝ちで幕を閉じた。

 僕は何事にも勝ち続けた。元々負けを知らなかった僕だから、それが当たり前だ。
 でも、僕はお母様に願いを告げる事は出来なかった。

 お母様の容貌は美しいものだけれど、あの人は元々お嬢様育ちでは無い。お母様は強い人だったと、お父様は語っていた。そして自分が唯一勝てない人だとも。
 
 そんな強いお母様は僕との勝負に負けると同時に眠りに落ちてしまった。それは一生覚めない深い眠り。

 お母様は病気に負けた。
 僕はお母様の病気について知らなかったから、突然の事で視界が真っ暗になった。

 僕がもし勝ったとしても、大した願いなんてない。ただこれからも家族3人で暮らせればいい、それ位しか、僕の願いなんて無かったんだ。
 そんなの願わなくても叶う物だから意味ないね、って心のどこかで笑ってた。その時の僕は、その願いが意味のある物に変わるなんて、全く思っていなかったんだ。

 母と勝負を始めた冬から、2年後の事だった。

 葬式を終え一人こっそりと抜けると、母と良く遊んだ庭園で僕は一人、涙を流すことも無く、座りこんでいた。
 考える事を始めてしまったら、きっと涙があふれて止まらなくなる。
 立ちあがる事が出来なくなってしまう。
 もう、何時間ここに居るかも分からないけど、お母様が来る様子は少しもなくて、でもそれが当たり前なんだって気づくと、涙を通り越して笑いがこみ上げて来そうになった。
 
 願い事叶えてくれるって言ったのは誰ですか。

 まだまだ夏休みは続くから、今年はディブ二―ランド行こうねっ言ってましたよね?
 明日は宿題見てあげるって、明後日は一緒に庭園で遊んでくれるって、来年中学生だから入学式に着る服用意しとかないとなあって、部活動をするならお弁当作ってあげるからねって、応援行くからねって、絶対征十郎なら勝てるからねって、だって私の息子だから……って――
 
 全部嘘ですか。

 笑い声が全部溶けて、涙に変わった。
 ほら、止まらない。貴方の前で僕は泣く事をしなかった。だから、涙の止め方すら貴方に教えてもらえなかった。
 赤司家の一人息子である僕は強くなければならない、涙は見せてはいけない。
 目が腫れたらお父様にも、額縁の中のお母様にも、会わせる顔が無い。
 だから、早く、
 止まれ、
 止まれ、
 止まれ、
 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ……――

「……泣いてるの?」

 突然降りかかったその声に、僕の心は音も無く氷づいた。
 この庭園はお母様と僕の所有物のようなものだ。赤司家の庭の一部、つまり許可の無い者は本来入ってはならない。

 なのに何故?

 振り向いた先に居るのは、Tシャツに半ズボンを着た同い年に見える男の子。
 彼の瞳に映るのはクシャクシャに顔を歪めた僕の姿、その醜さを目にした僕は向き直って顔を隠した。

「別に……泣くって普通の事だよ? 隠す必要無いじゃん」
「……」
「俺も昨日母ちゃんに怒られて泣いたしー」
「……僕は今まで泣いた事が無い」
「え、嘘。じゃあ、今までの方がおかしかったんじゃない?」
「僕はいつだって正しい」
「んー……、じゃあたまには君が正しいと思わない事もしてみたら?」
「……どうして。僕は完璧で無くてはならないのに。こんな姿を他人に見られるなんて、羞恥で耐えられない」
「しゅーち? 難しい言葉遣わないでよー……。出来れば俺みたいなふっつーの小学生にも分かるように話してほしい」
「君と話す理由が僕にはない、そしてここは君のような者が踏み入れる場所なんかじゃない」

 この少年は何をしにここに来たのかは知らない。
 ただ僕は、お母様と過ごしたこの空間に、今は誰にも踏み行って欲しく無かった。この地につけていいのはお母様と僕の足跡だけ。
 だから一秒も早く、僕は少年にこの場から立ち去ってほしかった。

 しかしその少年は苛立ちを見せる僕に怯む事も無く、表情一つ変えずに言葉を投げかけてきた。

「俺にはあるんだよ、君と話す理由が」

 知り合いでも無い、いかにも小学生という感じの子供が僕に話す理由……?
 
「……何?」
「んー……ま、とりあえず、涙、拭きなよ」

 少年は僕にハンカチを出した。くまの刺繍がついたハンカチ。
 屈託のない笑顔に抗う気も失せたから、僕は大人しく彼の好意を受け入れた。

「……ありがと」

 僕が今よりずっと幼いころ、お母様が僕にくまのぬいぐるみを買ってきてくれたっけ? 僕としては女の子扱いされたようで複雑だったけど、お母様は何だかんだで可愛いものが好きだから……。あのくまは今何処にあるのだろう?
 
「ここは綺麗な所だね」

 突然呟いた少年の横顔がいつかの誰かと似ていて、少しだけ胸が痛む。
 
「こんなに綺麗な花が並んでる所見た事ないよ」
「お母様が……、全部育てていたんだ」

 もうここには居ないけれど。……そんな事は少年にとって全く知らない事であるのだから、敢えて僕は口に出さない。
 ああ、ここはお母様との思い出の場所であって……、そして僕と一緒で、お母様に置いて行かれた場所でもあるんだ。この花達はこれからどうするのだろう?

「こんな綺麗な花を育てるお母さんなら、きっと綺麗な人なんだろうねぇ」

 少年ははにかむ。少し照れくさそうに、何かを気にしながら。

「うん、綺麗な人だよ。この綺麗な花々とも比べ物にならないくらい」
「そっかあ……」

 少年は周りを見渡して、少し悲しげに眉を潜めた。

「でも、この花達何か寂しそうなんだよね。こんなに綺麗なのに」

 変わらない口調で言われたその言葉に、僕の胸はチクリと痛んだ。

「水が……足りないの、かな?」
「そういう事じゃないと思う、ただ何かを失った時みたいに悲しそうなの」
「……」

 僕は何も答えられなくなった。今、何かを口にしたら、言葉と共に涙があふれてしまいそうな気がして。
 少年はもしかしたら僕の事を知っているのかもしれない。
 だとしたら、少年は僕とこの花達を何処か重ねている……?

「だから、ね、君が笑っていたらこの花もつられて元気になると思うんだ」
「……何言ってるの……」
「上手く伝わらないもんだねぇ……。だから、何が言いたいのかと言うとさ、

 ……泣かないで」

「泣いてなんか……」

 ない、そう言いかけた僕の肌がいつの間にかまた涙で濡れているのに気付いて、慌てて僕は目を擦った。

「そんなに擦ったら傷がついてしまうよ。折角綺麗な瞳なんだから……」

 煩い、そう言う事すら出来なくて僕はまた地面に座り込んだ。
 泣きたくない、こんな自分を見られたくない、これ以上自分自身に負けたくない、なのに。
 どうしてこの少年はこんなにも僕の心を揺らして、視界を歪ませるのだろう。

「……もう夕日が沈んでしまうから、帰らなきゃ」
「え……?」
「そんな寂しそうな顔しないでよ、俺は小学生なんだから遅くまでフラフラしてる訳にはいかないの」
「別に寂しいとか思っていない、ただ結局君は何をしにここに来たのか、それを聞いていないと思っただけだ」
「あ、忘れてた……。別にこれと言って話したい事があった訳じゃないけれど、ただ、渡したいものがあったんだ」
「……?」
「えっとね……、はいこれ」

 彼がリュックサックから取りだして僕の隣に置いたのは、小さなヒマワリの鉢植え。小さくても綺麗に咲くヒマワリは、いつかお母様が話してた、冬の庭園の隅に咲いてた一輪のヒマワリと重なった。

 ヒマワリのような人になりたい……――、そう言っていたお母様。
 僕にもそんな人になって欲しいと願っていたのですか? ヒマワリのように高くを見つめて伸びていけば、僕もお母様に届きますか? また会う事が許されるのですか?
 この問いかけに答えてくれるお母様はもう居ない。だけど、このヒマワリは穏やかにそんな僕を笑ってくれているようだった。

 少年は僕と同じ目線に腰をおろして、優しく微笑んだ。

「……会ったばかりの君の事なんて俺は知らないけど、ちゃんと何処かで見守っているから。その花でも見て想い出して。君の大切な人の事」
「……」
「それと、あ、あと……俺の事も」
「……君の事なんてすぐに忘れる」
「ふはっ、酷いなあ。でもそのくらいの憎まれ口叩けるのなら、君はまだ大丈夫だよ」

 名前も知らないその子の声は、優しく僕の肩を抱いてくれた。
 その部分から、小さな温度がやっと僕の心に現れた。

「じゃあ、明日、君が笑える事を祈っているよ」

 名も知らない、ヒマワリの男の子はそんな言葉を残して、すっと帰って行った。

→②
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